犬山城から木曽川沿いを上流に向かって走ると10分くらいの岐阜県各務原市鵜沼と言うところに貞照寺というお寺があります。
このお寺、日本の国際的女優第一号である川上貞奴さんが私財を投げ打って建てたお寺でここに貞奴さんが眠っています。
境内には本堂を囲むように、仁王門が建ち、鐘楼堂、御手水舎、庫裡等が立ち並び静けさの中に、凛とした存在感を放つ境内となっています。
明治時代の日本、まだ女性が女性役を演じるという演劇がない時代。貞奴さんは、海外を凱旋して「女優」を育てる学校の必要性を感じて女優養成学校を設立し、自前の劇場でその女優たちに活躍する場をつくることに生涯まい進したそうです。
そんな思いが詰まったお寺なので、現在でも諸芸上達・芸事成就を願う多くの芸能人の方が参拝に来ております。自分も娘の諸芸上達を祈願して以前から参拝していました。お陰!?で娘も習い事がメキメキ上達しているので貞奴さんが見守ってくれているというのが我が家の定説となっています。
そんな貞奴さん、乗馬が好きでしたが時代も変わり、馬を自由に乗ることが難しくなっていた時代。
美しい木曽谷の深い山あいにぴったり合うと50歳近くの時に乗り始めたのが真っ赤なオートバイ。
バイクに似合う洋服を探しては着こなして、大好きだった恵那峡周辺を真っ赤なバイクで爆音を轟かせて颯爽と走る姿は地元の人から「カッコいい」と評判だったそうです。
そこで、今回は赤いバイクつながりでもあり、貞奴さんへのお礼も兼ねて貞奴さんのゆかりの地を尋ねてみました。
まずは、名古屋市東区の一角にある「二葉館」。
この二葉館、貞奴さんと福沢桃介が暮らした御殿。
福沢桃介といえば
日本の電力王と呼ばれダムと発電所建設により日本の近代化に大きな貢献をした実業家です。名古屋に潤沢な電気を引いて名古屋鉄道の敷設と経済発展にも貢献した人でもあります。
貞奴と桃介の出会いは、貞奴15歳の時に偶然出会いお互いに強く惹かれ合うのですが、当時桃介は本家の没落を立て直すため福沢諭吉家へ婿養子になり実業家として諭吉の後継となることを諭吉に承諾をもらった直後であり、その後、諭吉の援助でアメリカへ留学をしながら貞奴と一緒になることを強く想うようになるのですが、結局、福沢諭吉の娘と結婚し、貞奴に申し訳ない気持ちを持ち続け長年苦しむこととなります。
別れを告げられあきらめるしかなかった貞奴は、その後、日舞の技芸に秀でていて、才色兼備の誉れが高かったため、時の総理大臣伊藤博文などに贔屓にされ名実ともに日本一の芸妓となり福沢桃介と別々の道を歩み、23歳で川上音二郎と結婚し川上一座を設立。
28歳で音二郎とともに渡米し女優として活躍します。
そして桃介は、有名になった貞奴を知ると貞奴の望むものを何でも密かに支援するようになります。
夫、音二郎と死別して7年後、貞奴47歳のとき
妻がいる身ではありましたが貞奴への思いが消えない桃介は、貞奴の気持ちを試すため「桃介が危篤」と嘘の電報を貞奴に送ります。電報を受け取った貞奴は、舞台公演をキャンセルして桃介のもとへ走っていくのでした。それをきっかけにマスコミから大バッシングを受け女優を引退し、貞奴と桃介は30年以上の時を経て再び一緒に道を歩んでいきます。
48歳のとき桃介が木曽川の大井ダム建設のため現在の南木曽駅からほど近い木曽川沿いに別荘兼基地を建設。
この時、国道19号から木曽川に架けられた橋が、「桃介橋」という名前で現在もあります。
先ほどの別荘から歩いて3分のところにあり、駐車場や展望台なども整備されていました。
そして49歳のとき、桃介が貞奴と暮らすために「二葉館」とよばれる約2000坪の御殿を名古屋市東区に建てます。二葉館では、外国の要人、政界、経済界の者を招いて貞奴がもてなし、当時、剛腕であるが故に政財界などに敵が多かった桃介の評判を改善することに打ち込み桃介を支援します。
後にその縁で関東大震災などで資金難となった大井ダム建設工事が外国からの支援により復活します。
ちなみに貞奴さんは女優を引退すると音二郎と設立した児童劇団の経営のほかに桃介からビジネスのアドバイスを受け名古屋市に高級絹布を設立しフランスに輸出します。この会社では、15歳から20歳の女性を50人ほど雇い、45分働いたら15分休憩、昼休憩時にはテニスなどのレクリエーションがあり全寮制で、夜は、お茶、お花など習い事ができました。さらに社内にはプールを完備の超好待遇。「野麦峠」で知られるように当時の女工は非常に酷使されブラックな職しかなかった時代に世界を周り「女性」の活躍を見てきた貞奴さんは、女性の働き方改革とワークライフバランスに先見の明があったようですね。
貞奴さん58歳、望みであった児童劇団の女優のたまごが活躍できる場として帝国劇場株式会社を桃介が設立し、会長に就任します。
しかし、その2年後、病気がちであった桃介は、実業界を引退し会長職も辞めてしまいます。
桃介の介護をしながら児童劇団を必死で立て直しましたが帝国劇場の経営者が松竹に代わったため映画上映のみの劇場になってしまい児童劇団の活躍する場と収入源が無くなり解散することとなります。
この時、貞奴さんは優秀な女優を育てるための社会基盤をつくる夢を諦めることとなります。
その後、東京八王子にある不動明王を本尊とするお寺が廃寺になることを耳にし、引継ぎを申し出て私財を投じますがそれだけでは足らず、社会的使命として情熱を持って貞照寺建立に猛烈に突き進む姿に感動した政財界や歌舞伎界の中村吉衛門、尾上梅幸、松本幸四郎といった名優からも寄付を得て、62歳の時、現在の貞照寺が建てられました。
68歳のとき貞奴さんは、桃介を妻のもとに戻らせ、しばらくすると桃介は妻に看取られこの世を去ります。
その後、貞奴さんは、桃介が貞奴のために残した資産でお寺の向かい側にある木曽川沿い約1500坪の敷地を購入し、世話になった人々をもてなす贅沢な別荘「萬松園」を建て、児童劇団の子たちや女優の卵たちの発表の場として超豪華な宴を開いていたそうです。
そして、太平洋戦争終戦と同時に自身ががんに侵されていることを知り、余生を熱海の別荘地で暮らし実兄方に看取られ75歳で人生を終えるのでした。
現在も萬松園は、一部を記念館として残し結婚式場とおしゃれなカフェになっており非常に人気のあるスポットとなっています。
お寺の裏にある貞奴さんのお墓の石のふたには彼女の好んだカエデの葉と桃の実の模様が刻まれているなど、福沢桃介との愛を形にしたお寺になっているそうです。
そんな彼女がオートバイで好んで走った恵那峡。
現在でも非常に美しいところでした。
赤いオートバイの貞奴さんに捧ぐ。
貞奴さんと福沢桃介の二人三脚の人生については「二葉館」公式HPに詳細に説明されています。
コメント
コメント一覧 (8件)
こんにちはー。
コメントされている方と同じく、名前だけ知っているだけで、
どんな方だったのか知りませんでした。
いろんな意味で先駆者だったのですね。
この方、赤いバイクに乗ってらしたんですね。ドゥカティとか乗ってたんですかね。
恵那峡、きれいなところですね。(^-^)/
そうなんですよ。
色んなことが現在に結びついてきているんですねー。
赤いバイクは何だったのか気になりますねー。
普段。なにげに利用してるけど。その背景にはたくさんのヒトの想いがいっぱい詰まってて。この国いっぱいあらゆる方向にストーリーが広がってるんだな。うんうん。
そうなんですよね。
いろんなドラマがあるんですよね。
今回は、じっくりと深堀してみましたよ。
ふたりの名前だけは聞いたことがありましたが、19号沿いのあの橋に、まさかそんなストーリーがあったとは知りませんでした。せっかく走る旅、たとえ身近な場所でも、深掘りするとうんと楽しいですね。
そうなんです。いつも19号を走っているときにあの橋などが風景の一部として脳裏に焼き付いていたのですが、そんなドラマがあったことを最近知って心が躍った次第です。
それと、時は違えどあの木曽川沿いをバイクで走ることに同じように喜びを感じていた人が、しかも50歳の女性がいたことに驚きと共感をして、貞奴さんの人生をもっと深く知りたいと思った自分に不思議な縁を感じた次第です。
貞奴という名前は知っていましたが、激動の人生を歩まれていたんですね
何より厳しい時代を生きた先見の明のある方だと言うのが良くわかりました
endnさんのブログが歴史上の人物探訪的な感じになってますね
こういうブログも読んでいて面白いかも知れませんね
次回期待してま~す(笑)
貞奴さんとは縁があるみたいで知れば知るほど身近に感じてしまい、ついつい筆が進んでしましました。
自宅がゆかりの地に近かったり、仕事で関係があったり、赤いバイクで岐阜を走るのが好きだったり・・・。
人物探訪もいいですね。日本を知るためにも面白い企画ですね。
次回?!
あるかなー?